川田自動車物語
語り継ぎたい平和への想い
板津じいちゃんとの出会い
私と板津さんとの出会いは、2002年(平成15年)12月。 板津さんはこのとき78歳でした。
私は、とある会合で世界平和について考える機会がありました。ただ、世界平和といわれても何だか「ピン」とこない中、板津さんの新聞記事を目にします。 国のために自分の命を犠牲にする、昭和20年知覧飛行場から飛び立った特攻隊の話です。
元特攻隊の板津さんは、出撃したもののエンジントラブルで徳之島に不時着。知覧特攻基地に戻り、再出撃を待ちますが終戦を迎えます。板津さんは、多くの若者たちが飛び立ったまま還ることのなかった特攻隊員の死を伝え、二度と戦争を起こしてはいけないと平和の尊さを語り継いでいる方です。
平和への想い
「そうだ、板津さんに会えば、何か世界平和についてヒントが得られるかもしれない!」
そんな想いで板津さんとお会いすることとなりました。名古屋から近い犬山に住んでいるということもあり、直ぐにお会いすることができました。
小柄な板津さんは、正座したまま背筋をピンと伸ばし、当時のことを振り返りながら、今に至るまでの話を静かにしてくれました。
特に印象に残った話しは、板津さんが亡き特攻隊員の墓参りで彼らに報告する話です。 「平和のために命を犠牲にした。そのみんなのお陰で平和になった。そう思った。が、しかし、親が子を殺し、子が親を殺すような社会になった。私の何がいけなかったのか、申し訳ない。」と、お詫びする話です。
板津さんは、全国を巡り遺品を集め、特攻の語り部として「友の詩」を語り続けてきました。私は、板津さんがなぜ語り続けるのか、その平和への尊い想いにふれたとき、この想いは、次の世代に伝えたい、板津さんが生きているうちに残しておきたい。そんな気持ちになりました。
そして板津さんに「じいちゃん!じいちゃんが死んだら誰がこのことを伝えるの。じいちゃんの思いをしっかり残しておきたいから、僕たちにそのお手伝いをさせてほしい」とお願いしました。最初は、「私のことはいいから」と何度も断られたのですが想いが伝わり、ご了解いただくに至りました。
板津じいちゃんのホームページ
こうしたことがあり、おじいちゃんから多くの資料をお預かりし、ホームページを作成させていただく機会をいただきました。
弊社スタッフにもお手伝いいただきました。資料をデーターを起こす作業で、おじいちゃんが人生をかけて集めた資料(遺品・遺影)が知覧特攻平和会館に展示されていることを知った事務員は、是非、知覧に行きたいと言っております。
私自身、板津おじいちゃんとのことが切っかけで二人の息子(当時17歳と15歳)を連れて知覧特攻平和会館に行きました。息子はどう感じたか詳しく聞きませんでしたが、私は、自分の心が洗われているような感じになりました。子どもたちが大人になったらまた一緒に行きたいと思います。
今でもそうですが、板津さんと会うと背筋が伸びて心がピリットします。
何気ない平和の中で過ごしていると、ちょっとしたことでしょんぼりしたりつまずいたりすることがありますが、改めて多くの方の犠牲の上に今の平和があることを知ると、くよくよできないなあ、「がんばらないかんあ」と、そんな気持ちが湧いてきます。
こちらのホームページでは、板津忠正さんがこれまで語られてきたことを資料にしご紹介させていただいておりますので、よかったらご覧ください。
知覧特攻平和会館 初代館長 板津忠正 公式ホームページ http://www.itatsutadamasa.jp